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沖で待つ 『沖で待つ』
小説単行本
2006年2月 文藝春秋刊

芥川賞受賞作品

『沖で待つ』を読んで、とても感動した。タイトルが美しく、何度も何度も心の中に鳴り響き、その余韻のやさしさに浸っていた。そして、時折よみがってくることばになってしまった。  

住宅設備機器メーカーの埼玉営業所に勤める及川(「私」という語り手)さんは、浜松に転勤前の送別会を終えた後、ふと思い立って、五反田を訪れる。行く先は、一緒に福岡に配属されたことのある同期の太っちゃんのマンション。
ドアが開くと、太っちゃんが情けない顔をして突っ立ていた。『しゃっくりが止まらない』と言う太っちゃんは、三ヶ月前に死んでいたのだ。そんな太っちゃんとの会話は幽霊かもしれないし、及川さんの中にある太っちゃんとの語らいともとれる。
冒頭と対応する最後の場面では、太っちゃんが及川さんの前から去ろうとする頃、しゃっくりは消えていくのだ。 しゃっくりは、すでに亡くなっている太っちゃんのリアリティになっている。死者との対話のアイディアに、まず、驚かされる。

そして、物語は回想へと進む。
住宅設備機器メーカーへの就職で、福岡営業所にまわされた太っちゃんと及川さん。 特に、困った顔が似合う、その愛称どおりの体型の太っちゃん。いつでも汗をかける太っちゃん。どこにでもいそうな太っちゃんと後に結婚することになる、福岡営業所の才女の井口さんとの組み合わせは絶妙である。
一方、語り手の及川さんは、人として何が大事かを、頭ではなく心で知っている感性・カンの優れた人。そのことが、及川さんの行動やふるまいの原動力となっている。この一見どこにでもいそうな三人が物語をまわしていくのだ。これらの特異ではない、普通の人々を小説で描くのは、かなり難しいことではないだろうか。

福岡時代における仕事での数々のエピソード。その描写のディティールの深さ。そのなかで描かれる友情。だれもが、そうだなと思い出す同期の姿と、二人のみに存在する独自の同期の姿が醸成されていく。そして、それらの場面が映像となって見えてくる。
そんなすぐれた場面を取り上げるてみる。
−和風便器設置へのクレームの連続と、納期が間に合わないために空港で和風便器を直受けし、届け先の近くの駐車場から便器を担いで繁華街を走る姿。
−違算という伝票と集金のくいちがいからの帳簿合わせの苦労。そういう際中にでる、 「自分たちが死んだら違算(遺産)が残るだけだ」と、語るユーモア。
−パソコンの不具合とシステムダウンによる仕事のデータの抹消。しかたなく、缶ビールをとりだし、コクゾウムシなどのたわいもない会話の時間。
−バブルの崩壊から余儀なくされる営業への転化。競争会社に打ち勝つためには、おろそかにできない「売上必達」の営業活動。インフルエンザでの高熱を押して現場へ駆けつける太っちゃんの運転を肩代わりする及川さん。車の中で、「惚れたのか」「惚れちゃダメよ」と、逸らし合う。恋人ではない二人の会話はやるせなく愛おしい。
このように、自慢できることではないが、妻である井口さんでも、ほっとけないけど踏み込めない数々の修羅場の共有と、そこに生まれる友情が仕事を支えていることにほかならないのだ、と理解し成長し合う姿も描かれている。
今までの作品に共通するが、文章と文体の良さで、仕事の場面が読みやすく、すーと入ってくる。

やがて転勤して離れてしまう二人。何年も経ってから埼玉と東京で勤務する二人が再会する。その際、太っちゃんの提案で、死後の秘密の貯蔵庫であるパソコンのハードディスクの破壊について、お互いに約束し合う。妻にも頼めないことを託す。職場で培った友情があったればこそ成立する協約なのだ。同期としての友情のクライマックスである。いったい、太っちゃんの秘密とはなんなのかと興味がわいてくる。  
一般的に同期の絆は深いものだ。だが、友人は遠くに離れてしまっても、折々にふれてお互いを求め合う。しかし、同期は離れてしまえばそれほどには求めず、次第に疎遠になってしまう事が多い。太っちゃんと及川さんは、そうではない濃い関係としての同期なのだ。

その日は、太っちゃんの突然の死で以外に早く訪れる。マンションを出たところで7階から飛び降り自殺した人の巻き添え死であった。
約束を守るために、ハードディスクを破壊させるまでの及川さんの奮闘と心理は見事である。太っちゃんの死を完成させるために使命感ともなったハードディスクの解体は、星形ドライバ−を駆使した汗だくの作業である。ハードディスクの円形の鏡面に写った自分の顔を見て、及川さんは太っちゃんの死をほんとうに認識する。そして、泣きながらマイナスドライバーで破壊を続ける。
そのあと、福岡時代の同僚である副島さんと井口さんを訪ね、太っちゃんが残した写真と詩を見せられる。何編かの詩を読む。
自分の中に住む太っちゃんとは別の太っちゃんを知って驚く及川さん。そして、太っちゃんが守りたかった秘密がこれらの詩であったことを悟る。あの、せつないほどの労苦に満ちたハードディスクの破壊は、無駄骨に終わってしまうのか・・・。その中の一編に、
「俺は沖で待つ
小さな船でおまえがやって来るのを
俺は大船だ
なにも怖ろしくないぞ」
「大船かよ」と及川さんはうそぶく。しかし、「沖で待つ」という言葉が妙に心に残る。「沖で待つ」という詩をとおして、太っちゃんの言葉では言い表せない愛情の大らかさにうたれる。「馬鹿!」と言っているが、太っちゃんを肯定している。
そして、井口さんを通して、自分の知らなかった、井口さんだけが知っている太っちゃんの死を認識する。及川さんにとって、三度めの太っちゃんの死である。
井口さんは、太っちゃんの詩をを見て泣くのではなく、”フン”とやる。そんな井口さんは、普通の人物ではあるが、ありきたりの女性でもはない。井口さんを追って行っていくと、もう一つの物語ができそうに思える印象深さである。

再び太っちゃんの幽霊と語り合う場にもどる。その中で、
『楽しいのに不思議と恋愛には発展しねぇんだよな』という太っちゃん。及川さんと太っちゃんは、最初から男女の仲になる二人とは読ませなていない。けれど、友情か恋愛なのか、あるいは、くっつくのか、くっつかないのか、そんな疑問を抱く読者もいるだろう。だから、二人は恋愛関係ではないのだと、読者のなかにおさまってくる。
そして、「覚えている?最初に福岡に行ったときのこと」『おう、覚えているよ』という会話の後、”それならなにも言い足すことはありませんでした”、と思う及川さん。
これで、二人の関係を見事に描ききったのだ。

「沖で待つ」と心の中で呟いてみる。凪いだ海辺に立ち、じっと、沖合に浮かぶ一艘の船を見つめて立っている井口さんとその少し後ろに佇む及川さんが見えてくる。
ふと、「海のむこうは黄泉の国」という古代の伝承を思い出す。いつまで待たされるのかはわからないが、しみじみと悠久のときが流れるているようで、まるで、万葉の歌のような抒情に満たされる。それほど、神秘的なタイトルである。
これはとりもなおさず、全体として読みとった太っちゃん、及川さん、井口さんの三人がかたちづくった物語が、ですます調の文体により、詩的な世界にまで昇華したことに他ならないのだろう。
文体は作品毎に異なるが、今回のですます調は、作品の余韻や奥行きを醸しだす効果となっている。また、こんな太っちゃんという人間が生きていたんです、と読者へ語りかけているのだとも読める。
『沖で待つ』を読んだ後、「生きていくのってやっかいだな」と思っていたのが、「なかなかいいもんだなぁ」と、心が立ち直っていく感動がある。感動とは、つまりは、人への、あるいは人生への愛着を取り戻したり、深まったりすることなのだ。言い換えれば、人生のかけがえのなさがひたひたと迫ってくることなのだ。大好きな作品だ。


by Red

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